「錦鯉」を深く知る

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「錦鯉」とは、日本で生まれた唯一の観賞魚であり、日本の国魚とも呼ばれています。また、「泳ぐ宝石」とも称され、その優美な姿は世界中の多くの愛好家を魅了しています。

山古志は、錦鯉の発祥の地として知られ、今もなお残る日本の原風景の中で、昔ながらの伝統を守りながら錦鯉が飼育されています。

先人から受け継いだ、たゆまない努力と工夫を重ねながら、クールジャパンとして世界に発信し続けている「錦鯉」のルーツを辿ってみましょう。

 

なぜ、山古志から錦鯉が発祥したのか?

錦鯉の始まりは、およそ200年前までさかのぼります。

豪雪地帯にある山古志では、かつて冬場に交通が途絶することは珍しくありませんでした。そのため、冬場のたんぱく質を確保するために真鯉が飼育されてきました。江戸時代後期ごろ、田んぼの用水地で食用に飼っていた「真鯉」から、突然変異で色のついた鯉が現れたのが、「錦鯉」の発祥と言われています。

「錦鯉」が全国的に知られるようになったのは、1914年(大正3年)に東京博覧会に山古志の錦鯉が「変わり鯉」の名で出展されたことです。以後、その美しい存在価値は日本各地に広がりました。その後も、改良に改良を重ね、現在の美しい姿に創り上げてきました。今日ではその品種は100種類にも及ぶと言われています。

近年では、世界各地に輸出されるようになり、カラフルな色彩と大きく成長することから「世界最大のガーデンフィッシュ」として、人気を高めています。

 

「復興の象徴」危機を救った錦鯉ネットワーク 

2004年10月23日の新潟中越地震で、錦鯉産業も壊滅的な被害を受けました。ライフラインは完全に絶たれ、停電により酸欠になった20万匹以上の錦鯉が死亡しました。また、地震による棚池の地割れ、ため池のひび割れなどの被害も重大で、これまで丹念に育て上げてきた80%以上の錦鯉が至る所で、死に追いやられました。

「生き残った錦鯉を、一刻も早く助けださねば…」。

そんな思いから、約一か月後の11月18日に、空前のヘリコプターによる「錦鯉大救出作戦」が開始されました。この日に救出されたのは約450尾あまり。その前の救出数と合わせると2,200尾あまりもの錦鯉を救出することができました。

また、全国各地の錦鯉生産者が、震災後すぐに被災地に駆けつけ、錦鯉救出や親鯉貸与などの支援に尽力してくれたほか、世界中の錦鯉愛好家たちから義援金を通して、山古志に大きな支援をいただきました。

このように、多くの支援や国内外のさまざまな繋がりから、山古志の錦鯉産業は復興を遂げることができ、今もグローバル市場に向けて成長を続けています。

 

 クールジャパンとして世界へ発信

江戸時代に初めての錦鯉が誕生して以来、長い年月をかけてさまざまな改良が行われてきました。特に1916年に、純系交配から雑種交配へと進化した改良技術により、新しい品種の錦鯉が多く生み出され、錦鯉文化の基盤が確立されました。

こうした長い間続いた努力の結果、錦鯉養殖と農業を組み合わせた複合経営は、山古志における重要な経済手段として発展してきました。また、産業化された養鯉業は、後継者の育成にも順調で、若手への世代交代も積極的に進められています。

さらに、産業のグローバル化に積極的に取り組んだ結果、近年ではヨーロッパ、北アメリカ、アジアなど世界各地の錦鯉ディーラーや愛好家たちが、毎年行われる「錦鯉の池上げ(収穫)」の時期に山古志に集結しています。

今後も、「錦鯉の聖地」として、世界に誇るクールジャパンの発信地として、期待されています。

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