「手掘り隧道」を深く知る

ROOTS

山々に囲まれ、冬の積雪が4メートルを超える世界有数の豪雪地である山古志は、昭和初期まで積雪が交通の障害となっていました。冬の峠越えは危険を伴ない、頻繁に発生する雪崩で村人が命を落とすなど、悲劇が繰り返されてきた地域です。

明治時代以降、このような交通事情を克服するために、道路を整備しようとする意識が高まりました。背景には、日本全体で商品経済が進展する中、村の生活を支えるために、他の地域との物流を確保する必要性が高まったからです。昭和に入ると道路整備の一環として、峠道を隧道によって克服する試みが行われるようになりました。

それでは、山古志の先人たちの、強靭な意志と不屈の根性で、厳しい自然環境を克服するために挑んだ足跡を辿ってみましょう。

 

なぜ先人たちは隧道を掘ったのか

山々に囲まれた山古志の集落は、隣村に行くために峠を越えなくてはなりませんでした。山古志の東端にある小松倉集落の人々も、生活物資の調達のために、時には病人を担架に乗せて運ぶために、隣接する現在の魚沼市まで行き来していたようです。

ただでさえ、大きな荷物を運ぶのは困難な峠道。積雪が4mにもなる冬の峠越えは特に厳しく、腰まで雪に埋もれながら、ときには吹雪に見舞われながら、危険を回避するために村人が何人かで集まって、峠を越えていたようです。そんな中でも、雪崩などで命を落とす人が出るなど、悲しい歴史がくりかえされてきました。

この困難な状況を克服するために、村人たちは立ち上がり、片刃のツルハシだけで隧道を掘ることを決意。

「隧道の長さは約900メートル。一年に45メートルづつ掘れば20年で開通できる。」

こうした命がけの信念が村人たちを奮い立たせ、1933年11月「山の神の命日」に鍬たて式が行われました。

 

決して順調ではなかった、貫通までの道のり

集落が一丸となって立ち上がるはずだったが、決して順調な走り出しではなかった。

賛成派と反対派の対立から始まった隧道掘り

隧道を掘る作業は、農耕の閑散期の冬に行われました。当時は、男性のほとんどが冬に出稼ぎに出るのが慣例だったため、出稼ぎに出られないことにより当然、生活は苦しくなりました。また、公的な援助を一切受けられなかったことが追い打ちをかけ、反対派との対立は深まるばかりで、途中で脱落する人も出てきて、掘削作業は計画通りには進みませんでした。

さらに、1937年に日中戦争が始まり、太平洋戦争へと拡大したことで、働き手の主力の若者が出征し、人手も燃料も資源も不足。その結果、掘り始めてから10年、324メートルの地点で作業を中断せざる負えなくなりました。

中断から4年、終戦後の工事が再開

終戦後の1946年、食料や物資が底をつく中、小松倉集落の村人たちは再び隧道を掘るために立ち上がりました。新潟県からの工事費の補助を一部取得できたおかげで、村人が一丸となって中断前の10倍のスピードで工事は進められました。そして、掘り手は子供の世代に引き継がれ、16年の歳月を経て、ついに1949年5月1日に922メートル、日本一長い手掘り隧道が貫通しました。

その後、隧道を通って嫁いできた人、都会へ就職した人、隧道のおかげで命が助かった急病人など、山古志の人々の暮らしを支えていきました。

2006年、日本土木遺産に認定

中山隧道が完成から50年後、1998年12月に「新中山トンネル」が完成。役割を終えた「中山隧道」は閉鎖され、埋め立てる予定でしたが、小松倉集落の人たちの「残したい」という熱い想いを受けて、新潟県と旧山古志村が中山隧道保存工事に着手。2006年に「日本土木遺産」に選定されました。

先人の志、そして「血のにじむような努力と命がけの仕事」「やり遂げる力」を後世に伝えたい。そんな強い想いが、中山隧道を未来の人たちへの大切な贈り物として残したのです。

 

当時の山古志村民の希望と葛藤を語る

交通の不便さを克服するために、村人たちの手で掘り上げられた、日本最長の手掘りトンネル「中山隧道」。最初から隧道を掘ることに、村人全員が賛成したのではなかったようです。現代に受け継がれている、当時の村人たちの想いを覗いてみましょう。

エピソード1:推進派と反対派になぜ分裂したのか

「トンネルを掘る話が持ち上がったとき、村人の大半は絵空事のように感じた。なぜなら村人がボランティアで掘れば、冬の出稼ぎに行けなくなり、生活が苦しくなることは明らかだったからだ。」そうした村人の事情を考慮して私の祖父は反対したのでしょう、と語るのは、現在も小松蔵集落に在住している小川喜太郎さんです。

集落の村人全員が村のことを真剣に考えて議論したからこそ、推進派と反対派は決裂したのでしょう。

エピソード2:戦後、小松蔵集落が一丸となって手掘り隧道へ

「女性たちは、先端がすり減ったツルハシを6本づつ担ぎ、雪の中山峠を越えて、隣町の鍛冶屋へ通った。子供たちは大人たちに交じって、掘った土砂を運ぶためにトロッコを押した。」そう振り返って語るのは、当時子供だった小川春司さん。掘りだした土が重くて、レールからトロッコが外れて苦労したようです。

「戦後の食糧難のなか、掘り手の父親の弁当にだけ白いご飯が入っていた。どこの家も同じ状況で、それだけ掘り手に期待がかかっていた。」そう語ることから、当時の村人たちの苦労とやり遂げる信念が感じられます。

 

先人たちの体力と技術に感服

昔から、平地が少ない山古志には水を確保するために「横井戸を掘る技術」がありました。その技術が日本一長い手掘り隧道を掘り上げたと言われています。

平成になり、映画「掘るまいか」の再現シーンで、山古志の人々がツルハシで掘削を試みたが、硬い岩盤を砕くことができずに火薬を使用。機械の無い時代に鍛えられた先人たちの強靭さがひしひしと感じられるエピソードです。「中山隧道に一歩足を踏み入れると、先人たちの気迫が伝わって勇気が湧いてくる」と、語られています。

 

ツルハシ1つでトンネル堀に立ち向かった、村人たちの16年におよぶ精神とエネルギーは、作品「掘るまいか」によって、現代に、そして未来へとつながっています。